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小城市の歴史

更新日:2020年9月 3日

小城市4町には、貴重な歴史・文化資源が豊富にあります。

小城町(おぎまち)は、鎌倉・室町時代に千葉城を中心とした中世都市、江戸時代には小城鍋島藩の城下町として繁栄しました。

三日月町(みかつきちょう)は、弥生時代に土生遺跡を中心に大陸との交流が盛んに行われ、また戦国時代は千葉氏、江戸時代は小城藩の米どころとして栄えました。

牛津町(うしづちょう)は、江戸時代から長崎街道の宿場町、また牛津川の港町として栄え、“西の浪花”と呼ばれました。

芦刈町(あしかりちょう)は、鎌倉時代の終わりごろから干拓が始まり、戦国時代には徳島氏、鴨打(かもち)氏などの武将が活躍し、農漁業の町として栄えました。

小城市のようすです。
小城市航空写真

旧石器時代から古墳時代まで

小城に人が住みはじめたのは約2万年前(旧石器時代)のことで、三日月町織島地区の遺跡で多量の石器が出土しています。縄文時代の遺跡も同地区に多く分布し、土器や石器が出土しています。

弥生時代になると遺跡の数は増大し、土生(はぶ)遺跡に代表される貴重な遺跡も見つかっていて、この時代に多くの人が住みはじめたと考えられます。土生遺跡は一部が国史跡に指定され、これまでの調査では多量の土器、石器のほかに鍬(くわ)・鋤(すき)などの木製農耕具が出土し、中でも朝鮮系無文土器や、青銅製鉇(やりがんな)鋳型、木製の踏鋤(ふみすき)が出土し、注目を集めました。

古墳時代には、北部や西部の山麓などで数多くの古墳が作られ、平野部では集落跡や方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)などが見つかっています。

生立ヶ里遺跡出土の木製容器です。
生立ヶ里(うりゅうがり)遺跡出土の木製容器

奈良時代から平安時代まで

奈良時代になると寺浦廃寺(てらうらはいじ)が建立されます。はじめは金堂を中心とした伽藍(がらん)配置でしたが、のちに塔を備えた法隆寺式の伽藍配置へと変遷していったことが明らかになっています。当時小城を治めていた豪族(郡司)の氏寺と考えられ、この周辺に小城郡を治める郡の役所があった可能性があります。

平安時代には大楊荘(おおやなぎのしょう)、赤自荘(あかぜのしょう)、晴気荘(はるけのしょう)の3つの荘園が立券され、宗像社領、宇佐八幡社領として寄進されました。また、この頃に晴気天山社や雲海山岩蔵寺(がんぞうじ)などが創建されました。

寺浦廃寺出土の瓦です。
寺浦廃寺出土の瓦

戦国時代前半まで

建久2年(1191年)、関東の武将千葉常胤(ちば つねたね)が源頼朝から鎌倉幕府成立の恩賞として晴気荘を含む小城郡の総地頭職を賜って以来、千葉氏が代々小城地方を所領としていました。

常胤の子孫・千葉頼胤(よりたね)は、元寇を機に小城に下向し、その子宗胤(むねたね)が肥前千葉氏の祖となります。宗胤の子胤貞(たねさだ)も小城に下向し、千葉城を築き、祇園川沿いに城下町をつくり、多くの寺社を建立しています。

千葉氏は、室町時代後半から戦国時代前半に最も勢力を強めました。その本拠地である千葉城は、15世紀を中心とした大規模な構造をもつ山城であり、貿易陶磁や多数の土師器(はじき)が出土しています。

また、千葉城の周辺でもさまざまな遺構や遺物が出土しています。朝鮮国で編纂された『海東諸国紀』によると、当時の小城は戸数1,200余り、兵力500余りで九州有数の大都市であったとされています。

千葉城跡です。
千葉城跡

戦国時代後半から江戸時代まで

戦国時代後半になると、千葉氏は内紛などにより次第に衰えていきますが、肥前国内では龍造寺(りゅうぞうじ)氏が急速に台頭し、小城もその支配下に入るようになりました。

しかし、天正12年(1584年)に龍造寺隆信(たかのぶ)が戦死すると、その家臣鍋島直茂(なべしま なおしげ)が勢力を得て、その子鍋島勝茂(かつしげ)は慶長12年(1607年)に龍造寺氏の所領を継ぎ鍋島氏の支配が確立されました。

元和3年(1617年)、勝茂の庶長子鍋島元茂(もとしげ)は小城に知行をうけて、小城藩が始まりました。2代藩主・鍋島直能(なおよし)は、今の小城公園一帯(小城高校も含む)に館を築き、小城は小城藩の政治・経済・文化の中心地として、また、牛津は長崎街道の宿場町として栄えました。石高7万3千石あまりの藩政は明治維新まで続きました。

小城鍋島家藩邸の模型です。
小城鍋島家藩邸(模型)

明治から昭和まで

明治4年(1871年)、廃藩置県によって小城県がおかれ、伊万里県、三潴県(みずまけん)、長崎県を経て、佐賀県となりました。

行政単位は、明治11年の郡区町村編成法や明治17年の同法の改正、明治22年の町村制施行によって大きく変化し、小城町・岩松村・晴田村・三里村・三日月村・牛津村(のち町制)・砥川村・芦刈村が誕生しました。

昭和7年(1932年)に小城町・岩松(いわまつ)村・晴田(はるた)村・三里(みさと)村が合併して小城町、昭和31年に牛津町・砥川(とがわ)村が合併して牛津町、昭和42年に芦刈村は町制施行により芦刈町、昭和44年に三日月村は町制施行により三日月町となりました。

梧竹退筆塚です。
梧竹(ごちく)退筆塚

そして、平成17年(2005年)3月1日、小城町・三日月町・牛津町・芦刈町が合併して『小城市』が誕生しました。

 

 

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