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小城市の文化財(歴史資料)

更新日:2019年11月 7日

小城市重要文化財

小城藩邸図(おぎはんていず)

小城藩邸図の画像

上:立面図

下:平面図

指定年月日 平成元年(1989年)3月7日
所在地 小城市小城町158番地4(Googleマップで表示します)
小城市立歴史資料館〔アクセス方法

小城藩邸(陣屋)は、小城鍋島家3代藩主元武が元禄3年(1690年)に2代藩主直能の隠居所であった屋敷を居住所として定めたことによって確立しました。江戸時代の初め、小城藩主は佐賀城西の丸に居住しており、当時桜岡には茶屋があるのみでした。その後、直能が延宝年間(1673年〜1681年)に桜岡西麓一帯に隠居所を設けましたが、この隠居所がのちに藩邸になりました。その後、時期は明らかではありませんが、現小城高校管理棟・体育館・教室棟一帯に移り、廃藩置県後明治15年(1882年)頃に解体されました。

 

これらの小城藩邸図は藩の御用大工の子孫に伝えられていたもので、現小城高校一帯に移転後の藩邸修理の際の図面と思われ、材質は全て和紙です。図面は安政6年(1859年)の平面図1面、年代不詳の平面図1面、立面図2面、部分図21面があります。

 

この図面によって、藩邸内の各部屋の間取りや名称、役所の様子などを詳しく知ることができます。またこのような藩邸図は他の鍋島支藩では知られておらず、建築史学上でも貴重な史料です。

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中林梧竹使用の筆並びに硯
(なかばやしごちくしようのふでならびにすずり)

梧竹の筆と硯の画像 指定年月日 平成2年(1990年)3月5日
所在地 小城市小城町158番地4(Googleマップで表示します)
小城市立中林梧竹記念館〔アクセス方法

小城市出身の書家・中林梧竹は、生涯さまざまな筆を用い優れた作品を残しました。70歳代までは長鋒筆を用い、80歳代は短鋒筆を用いました。86歳のときに上海の筆屋呉吟軒に作らせた、超短鋒と呼ばれる梧竹考案の特異な筆もあります。

 

筆が入っている箱の書付によると、これらの筆、硯は梧竹の子の袈裟吉から桜岡小学校に大正3年(1914年)に寄贈されたものです。

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中林梧竹筆書及び高取伊好宛書簡
(なかばやしごちくひつしょおよびたかとりこれよしあてしょかん)

書「掃雲迎月」と、中林梧竹筆書及び高取伊好宛書簡の画像

(上)書「掃雲迎月」

(下)書簡4:8月1日付添状

指定年月日 平成24年(2012年)11月22日
所在地 小城市小城町158番地4(Googleマップで表示します)
小城市立中林梧竹記念館〔アクセス方法

この資料は書1点および高取伊好宛の書簡4通を収めた巻子装となっています。書と書簡の関係は不明です。

 

小城市出身の書家・中林梧竹は、大正元年(1912年)10月に脳卒中で倒れ、左半身不随となり、翌大正2年(1913年)5月に東京から三日月の梧竹村荘に帰って療養していました。巻頭の書「掃雲迎月」はその最晩年に書かれたものです。その後、湯治のために嬉野温泉の大村屋旅館に6月20日に投宿しています。書簡1と2は、7月5日と7日に療養先の大村屋旅館から出されたものです。

 

梧竹はその後、7月10日に嬉野温泉での療養を終えて佐世保居住の孫娘橋本キヨ宅に寄り、7月11日に佐世保から梧竹村荘に帰っています。

  • 書簡3
    7月11日付の嬉野往来についての礼状
  • 書簡4
    8月1日付で観音信仰に篤かった梧竹が、大切にしていた観音像を高取伊好宛に贈った添状

 

梧竹は、同年の8月4日に梧竹村荘で死去しています。書簡4は、死去の3日前にあたり、絶筆とされます。これらの書簡は書聖・中林梧竹最晩年の動向の一端がうかがわれる貴重な資料です。

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問い合わせ

小城市教育委員会 文化課/梧竹記念館/歴史資料館
〒845-0001 佐賀県小城市小城町158番地4(桜城館内)
電話番号:0952-73-8809/0952-71-1132(平日、土曜日、日曜日 8時30分から17時15分まで) ファックス番号:0952-71-1145
メール:bunka@city.ogi.lg.jp
 

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