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小城の伝説

更新日:2019年11月 7日

阿蘇惟直と姫御前

足利尊氏(室町幕府初代将軍)は打ち破られ、九州の方へ西下して来た。
そのとき従って来たのが、細川・今川・千葉であった。それと小城に関わりが出てくるが、九州で勢力を集めて、盛り返すためであった。それを菊池一族は、阻止しようと博多の多々良浜で迎え討ちをした。しかし、菊池は大敗する結果になり、海岸沿いから天山を越え有明海へ出て、肥後(熊本県)に逃げ帰るつもりだった。
しかし、阿蘇惟直や弟の惟澄らは、唐津市七山村池原の付近、天山の山中で足利軍や当地一帯を治めていた小城・千葉氏の家来の追撃を受け、池原の陣の平で負傷してしました。惟直は厳木町天川近くの小杵山に逃げのびそこで自害したが、惟澄は負傷しながら唐津から海路で肥後に逃げ帰った。そして、惟澄は犠牲者の惟直や家来のことなどを報告した。
晴気の人たちの言い伝えでは阿蘇惟直は天山の頂上で「遺骸を阿蘇山の煙が見えるところに葬ってくれ」(現在天山の頂上には惟直の石碑がある)と遺言して自害したという。惟直の奥方、姫御前はひとりで惟直の慰霊のために小城にやって来た。千葉氏の追っ手を逃れ、晴気までやって来た姫御前を、峰の人たちはおにぎりなどを与えてかくまった。
ところが追っ手の探索で姫御前は自害なさったので、瓢塚に祀った。
瓢塚の中央には「姫御前」と記した碑がある。峰部落では現在でも桜の咲くころにおにぎりや小豆を供え、「姫御前さん祭り」をしている。
姫御前の髪は黒く美しかったといわれていた。瓢塚の水滴を髪につけると、髪が黒くなると、言い伝えられ、若い娘や婦人たちは、競って水滴をつけるという風習もあった。
また、姫御前は瓢塚の中でお産をされたとも言い、峰部落に行く谷の所を「赤子谷」という。そのへんでは赤ちゃんの泣き声が聞こえてくるとも伝えている。
(小城町米の隈 岸川馨さん 昭和3年生れ 小城町教育委員会『小城町の民話』平成17年

 

千葉城の水攻め(白米城)

鍋島の前の竜造寺の時ですね。千葉家は代々九州を治めるために殿さんがつかわしたのが、千葉ちゅうことらしかでね。
その千葉家があすこへ城を造っておったわけですね。ところが竜造寺ていうのが、
「ひとつ、そいをたいらげよう」て言うて、千葉家と竜造寺が戦争したわけたい。
そのとき、竜造寺が水攻めしたところが、
「このまま水攻めされたら倒されてしまう、負ける」と。そいで、
「何とかせん」と言うて、そいで、こっちはまだ水あるぞということを見せるために、白米をですね馬にかけて。
そいぎ、あありゃ、まだ水のあったぁと思うて、水攻めを断念したとか何とかいう話があります。
(三日月町戊 伊東素直さん 明治36年生れ 佐賀民話の会『三日月の民話』平成3年)

 

地名(牛津)由来

むかし。
黒髪山に七巻半巻いとった大蛇があって。
これを鎮西八郎為朝がですね、その大蛇が夜な夜な出て人ば苦しめてばかいしとったけん、「これを殺してやろう」というので、鎮西八郎為朝が七巻半の大蛇の頭に弓矢で射って、そして殺すわけ。
そして、七巻半の大蛇の鱗を一枚、馬車に乗せてそして、こっちに引いてきたて。引いてきて、ここまで来た時、牛がどうしても動かんて。そこで、ここに大蛇の鱗を祀ったて。
その当時、ここは入江で津になっていたので、ここから牛津ていうようになったて。
(牛津新町 中牟田正人さん 明治42年生れ 佐賀民話の会『牛津の民話』昭和60年)

 

お島さん

お島さんというのは、芦刈のむこうの八立虎て言いますか、いちばん北の方のそこのあたりが今の浜枝川ですね、大字で言うたら。あのあたりが干ばつでね、あの、もう大不作でなろうとしたわけですよ。水がいっちょも入らんでお米が。
そいでその、お島さんという人がね。身投げしんさった。川に、牛津川にそいぎそのお島さんがね、ズーッと流れて言ったのが、今、沖ノ島ですね。沖ノ島さんには女の参っことはなんやった。その時分はですね。お島さんが流れついとんさっとの、お島さんの霊ば慰めて、豊作を祝ってて言うて、今沖ノ島参りのあいよっですもんね。そいばってん、あの頃はね、そんなふうで女は参いっことなんやったろうかねぇ、て言うて。そんな話もあったですよ。
石ころをお供えしてあるところもありますね。あの、沖ノ島参って、何か拾うてきてね。神さん置いとったら、難を逃れるとか何とかね、伝説はありますね。
(芦刈町永田 水田スミ子さん 大正10年生れ 小城市教育委員会『芦刈の民話』平成22年)

 

 

 

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