1827年 |
文政10年 |
1歳 |
4月19日小城町新小路(現・小城町本町)に中林経緯の長男として生まれる。幼少の頃から書の才能を発揮し、神童と称される。 |
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1836年 |
天保7年 |
10歳 |
小城藩校興譲館に学び、草場佩川(くさばはいせん)に師事し小城藩9代直堯(なおたか)に認められ、10代直亮(なおすけ)に仕える。 |
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1839年 |
天保10年 |
13歳 |
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1854年 |
安政元年 |
28歳 |
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1856年 |
安政3年 |
30歳 |
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1864年 |
文久4年 |
38歳 |
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1871年 |
明治4年 |
45歳 |
廃藩置県により小城藩は小城県となる。この頃から一切の役職を辞し、書に専念するようになる。 |
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1875年 |
明治8年 |
49歳 |
桜岡公園(現小城公園)の建設に尽力し、自らの筆で「桜岡公園」の碑を建てる。 |
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1882年 |
明治15年 |
56歳 |
梧竹59歳のときの書
「快雨」
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長崎の清国領事余元眉の帰国に伴って清国に渡る。潘存から書を学ぶ。長鋒筆による立ち書きを会得する。 |
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1884年 |
明治17年 |
58歳 |
清国から帰国する。副島種臣、松田正久、波多野敬直らの紹介で銀座の伊勢幸洋服店に住む。以後30年間伊勢幸を中心に活動する。
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1891年 |
明治24年 |
65歳 |
副島種臣の勧めにより、「十七帖」の臨書を明治天皇に献上し、白羽二重(しろはぶたえ)を贈られる。 |
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1896年 |
明治29年 |
70歳 |
梧竹71歳のときの書
「天鼠膏帖(てんそこうじょう)」
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銀座伊勢幸から小城へ帰る。翌年清国に渡り、帰国後再び伊勢幸に住む。 |
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1898年 |
明治31年 |
72歳 |
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1904年 |
明治37年 |
78歳 |
東京都港区芝の薬王寺境内にある師山内香雪の墓の向かいに自分の墓を建てる。 |
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1906年 |
明治39年 |
80歳 |
小城に帰郷し、観音堂の建設を始める。この頃、長鋒筆から短鋒筆に移行。 |
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1908年 |
明治41年 |
82歳 |
梧竹82歳のときの書
「海外飛香」
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三日月村に観音堂、梧竹村荘が完成し、帰郷する。皇后陛下から観音堂に、宝帳を贈られる。また、宮中女官12人から、和歌帖「三日月帖」を贈られる。 |
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1909年 |
明治42年 |
83歳 |
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1912年 |
明治45年 |
86歳 |
この年、上海の呉吟軒に依頼して超短鋒筆を作らせる。10月に銀座の理髪店にて脳卒中を発症し、伊勢幸で療養する。 |
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1913年 |
大正2年 |
87歳 |
5月 三日月村に帰り武雄、嬉野温泉で療養する。 |
8月1日 持仏の観音像を高取伊好に贈る。 |
8月4日 午前2時に梧竹村荘で死去。 |
8月8日 観音堂で葬儀が行われる。約200名が参列する。長栄寺(現・三日月町)に葬られる。法名は「梧竹堂鳳栖五雲居士」。 |
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