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小城の伝統芸能

更新日:2014年 05月 30日

晴田注連元行事

晴気天山社のおくんちにおいて浮立を奉納する行事である。天山社の氏子地区を10のブロックに分けて、輪番で浮立を奉納している。浮立奉納の担当地区はそれぞれ独自の浮立を継承している。

小城町晴気

 

 

岩蔵天山神社浮立

旧暦の9月15日に岩蔵谷では、岩蔵天山神社に新しい注連縄をは張り新米を供え中・松本・江里口・大日・二瀬川・永泉寺の6部落が輪番で6年毎に浮立を奉納している。この浮立には、大日部落の面浮立と他の部落の鉦浮立の2種類があり、神前で天下泰平、五穀豊穣を祈る天衝舞を奉納する。天衝舞は、今から400年前の「島原の乱」のおり小城藩が戦勝祈願をしたのが始まりで、舞人は腰にゴザを下げ、巨大な半月形の「テンツキ」という異様なかぶり物をいただき、勇壮に舞いながら大太鼓を打つ姿は剛健な武士を思わせます。腰のゴザは切腹の場で、以前は切腹のための刀を差していたと伝承されています。

小城町岩蔵

 

 

堀江女相撲甚句

堀江地区では、江戸時代に秋の五穀豊穣や天下泰平を祝い、奉納浮立(宮相撲)が始まりました。これが昭和の時代まで続いていましたが、戦争で男性が村にいなくなり、継続が難しくなりました。そこでこの伝統行事を絶やしてはいけないと、村の女性が力を合わせて続けました。昭和24年の大水害のときに村の守り神「淀姫神社」が流されてしまいました。早く神社を復興させようと、女相撲をすることにしました。化粧回しを作り相撲甚句を考えました。これが「堀江女相撲甚句」の始まりです。

三日月町堀江

 

 

内砥川の鉦浮立

内砥川の鉦浮立はいつ頃から伝承されているのは不明ですが、鉦に弘化2年(1845)、嘉永5年(1852)と刻印があることから150年以上前から伝承されていると考えられる。「鉦浮立」は聞く浮立と聞かされており、大小4種類の鉦と大太鼓、笛で囃されます。囃子は道行きでの「道浮立」、神の前では「片拍子」、「まくり」が奉納される。

牛津町内砥川

 

 

牛津仁〇加

仁〇加という芸能は、江戸時代の半ばより明治時代にかけて盛んに行われた民衆の芸能で、滑稽と風刺、洒落、頓知を身上とした即興の芸能です。仁〇加の起源ははっきりしませんが、享保年間、大阪住吉神社の夏祭りを起源として江戸時代の末期から明治時代の初めにかけて全盛期を迎えた。牛津における仁〇加の歴史は明治時代以前のことは明らかではなく、わずかに『野田家日記』に「文政十年(1827)閏六月一日 牛尾山ニ雨乞浮立掛り、内中登ル、にわか迄有リ」とありますが、乙宮社、西宮社などにおける仁〇加上演の記載はありません。乙宮社への奉納は、今の新宿、本町、中町、立町、西町による5町を挙げての仁〇加の競演でそれぞれ各町ごとに舞台がつくられ、順に町での上演を終えて乙宮社での奉納を最後とし、屋台に太鼓、三味線、鉦の囃子を乗せて町回りしていました。

牛津町本町

 

 

弁財太鼓浮立

芦刈町の太鼓浮立はその起源は明らかではないがおよそ2〜300年前頃からと思われている。旧暦6月19日の夜に行われる「沖の島さん詣り」の際に奉納される。有明海沖に浮かぶ小さな岩礁の祭神であるお島さんにお参りし、霊を慰め五穀豊穣、家内安全を祈願する。当日は、船をのぼりや提灯で飾り立て、弁当をこしらえて船に乗り込み、笛の音に合わせて、太鼓を勇壮に打ち鳴らし、掛声とともに囃し立てながら宵の口に船出する。深夜、島へ着くと競って島に上がり太鼓浮立を熱演する。

芦刈町弁財

 

 

六丁新地踊り

芦刈町はその土地の大半が干拓や開墾によって開かれている。
六丁新地踊りは唄い手、囃し手、三味線、荷方、踊手からなり干拓工事を進めて、耕地を作るさまを重労働中にも喜びや楽しみ、おかしさなどが唄、踊りに盛り込まれている。

芦刈町六丁
 

 

 

 

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