小城市の文化財(彫刻)
更新日:2024年6月 5日
国重要文化財
木造薬師如来坐像(もくぞうやくしにょらいざぞう)
指定年月日 昭和25年(1950年)8月29日
所在地:小城市牛津町上砥川(広巖山常福寺)
佐賀平野西端の太平山中腹に、臨済宗南禅寺派に属する常福寺があります。寺歴については詳かではありませんが、真言宗寺院を後世に古月和尚が中興して臨済宗に改めたと伝えられています。
本像は常福寺本尊で、右手で施無畏印を示し、左手に薬壷を執る一般的な薬師如来像であり蓮華座に結跏跌坐しています。像高は82.7センチメートルで、頭体根幹部を桧の一材から彫出し、右肘先、両手首先、膝前などを寄せ、体部には像底より内刳りを施しています。
様式的には、平安時代前期の強さを残しながらも全体に穏やかさを帯び、衣文の処理には平安時代末期的な平行線状の繰り返しの兆しを見て取ることができます。
木造帝釈天立像(もくぞうたいしゃくてんりゅうぞう)
指定年月日 昭和25年(1950年)8月29日
所在地(寄託):佐賀県立博物館(佐賀市城内1丁目15番23号)
本像は、常福寺に伝えられてきたものです。甲の上に衣を着け、右手を腰の辺りに垂下して宝剣を執り、左手を前方に差し伸べて独鈷杵を載せています。像高は110.9センチメートルで、頭頂から台座にいたるまで、カヤの一材から彫出し、内刳りは施していません。表面は彩色を施さずに素木仕上げとしています。本像の非常な厚みや足首の狭まり、あるいは肩を引いて変化をつける側面観などは、平安時代前期の特徴を備えています。一方、天冠台以下の髪が胄状に厚く、胸や腹・腿の抑揚は控え目となり、時代の下降が見て取れます。本像の制作は平安時代中期と思われます。
佐賀県重要文化財
木造持国天立像・木造多聞天立像
(もくぞうじこくてんりゅうぞう・もくぞうたもんてんりゅうぞう)
木造持国天立像
木造多聞天立像
指定年月日 昭和34年(1959年)3月20日
所在地:小城市小城町松尾(三間山円通寺)
円通寺は白雉元年(650年)の創建で、当時は三箇寺と称していました。その後三間寺と改め、岩蔵寺の末寺となり、天台宗に属しました。鎌倉時代には、岩蔵寺の若訥宏弁(じゃくとつこうべん)が三間寺に移り、寛元4年(1246年)に南宋から渡来した禅僧・蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)に師事して親交を重ね、弘安元年(1278年)に若訥宏弁は円通寺を禅寺としました。当時小城の領主であった千葉宗胤からも手厚い保護を受けています。貞和6年(1350年)には「三間名山円通興国禅寺」の称号を受け、鎌倉の建長寺、京都の南禅寺と並んで日本三興国禅寺の1つに数えられています。
この両像は、鎌倉時代の大仏師湛幸(たんこう)によって造られたものです。二天とも欠失やまたは剥落等が著しいものの、仏体の主要部分は良く保存されていて、しかも胎内の銘によって鎌倉時代の永仁2年(1294年)の作になることがわかります。この天部像はその作風とあいまって仏像彫刻史上価値の高いものとされています。
木造薬師如来坐像・木造大日如来坐像・木造十一面観音菩薩坐像
(もくぞうやくしにょらいざぞう・もくぞうだいにちにょらいざぞう・もくぞうじゅういちめんかんのんぼさつぞう)
(左)木造十一面観音菩薩坐像
(中)木造薬師如来坐像
(右)木造大日如来坐像
指定年月日:平成6年(1994年)年3月31日
所在地:小城市小城町池上(医王山三岳寺)
本三像は楠を用いた寄木造に玉眼を嵌入し、漆箔仕上げとなっていて、左足を上にして結跏跌坐しています。薬師如来像は右手を胸にあげて施無畏印とし、左手は腹前に置いています。大日如来像は智拳印を結ぶ金剛界大日です。十一面観音像は左手に水瓶を持ち、右手は膝上に置いており、数珠などの持物を持っていたものと思われます。
三岳寺に残されている古文書「僧隆海田地寄進状」などには、本三像について、古像が消失したため僧隆海が呼びかけ、千葉氏が中心となって永仁2年(1294年)に再興されたと記されています。
三像は構造や彫口が同じであることから制作時期、作者ともに同じであることが確認されます。制作時期については、薬師如来像の髪際線がたわみ、大日如来像の膝などに波立つような衣文がみられることから、鎌倉時代後期の制作で、本像が古文書に記されている再興された像であると考えられます。
木造千手観音菩薩立像(もくぞうせんじゅかんのんぼさつりゅうぞう)
定年月日:平成10年(1998年)5月11日
所在地:小城市小城町畑田(小松山建保寺)
建保寺は、南宋から渡来した禅僧・蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)を開山とします。本像は仏像本体と台座蓮肉部までを一材から彫りだし、内刳りを施さないことや、上体を後方に反らす姿勢、裳にみられる翻波式の衣文など、平安時代前期彫刻の優れた特徴を備えています。肉身部の張りがすくなく、衣文が浅く彫り整えられる傾向があることから、10世紀前半の制作と推定されます。像高111.0センチメートルで、材質は檜材です。
木造日光菩薩立像・月光菩薩立像
(もくぞうにっこうぼさつりゅうぞう・がっこうぼさつりゅうぞう)
木造日光菩薩立像
木造月光菩薩立像
指定年月日:平成14年(2002年)3月6日
所在地:小城市立歴史資料館(小城市小城町158番地4)
本像を伝える晴気の天山社は天山山頂に上宮を持つ天山社の下宮の一つです。本像は近年の社殿建て替えに伴い、鎌倉時代のものと思われる木造狛犬等数躯の中世彫刻などとともに発見されました。
日光菩薩像は像高67.9センチメートル、月光菩薩像は像高62.2センチメートルで、両像ともに宝冠をかぶり、大袖の衣の上から、がいとう衣を被り、くんをはき、沓を揃えて正面を向いて立っています。日光・月光菩薩として一般的な像容ではなく、むしろ梵天・帝釈天の姿を想起させますが、背面の修理銘から仁治3年(1242年)には日光・月光菩薩像として伝来していたことが知られます。
この両像は秀麗な顔立ちや浅く彫りだした左右対称の整った衣文から、平安時代後期(12世紀)の制作と考えられる仏像で、特に顔貌表現に鋭く巧みな彫技が認められます。仁治3年の修理銘から天山社に伝来したことが明らかであり、本県の山岳信仰関係の美術を語る上で欠かすことのできない、優れた平安彫刻です。
小城市重要文化財
石造五百羅漢像(せきぞうごひゃくらかんぞう)
指定年月日 平成元年(1989年)3月7日
所在地:小城市小城町畑田(祥光山星巌寺)
五百羅漢像は、祥光山星巌寺内の藩主の御霊所(肥前小城藩主鍋島家墓所)へ至る参道の両側に安置されていますが、以前は境内東側の僧坊の前にあったことが幕末期の「星巌寺境内図」でわかります。現在は200体が残っています。この羅漢像群については制作年や制作者については明らかではありませんが、江戸時代中期に小城町西川の石工平川徳兵衛一族によって造られたと伝えられています。
空山観音三十三体石仏像
(くうやまかんのんさんじゅうさんたいせきぶつぞう)
定年月日:平成7年(1995年)11月1日
所在地:小城市牛津町上砥川(空山観音堂)
制作時期が確認できるものは、33体中14体です。そのほとんどは、石塔部分に「元禄9年~元禄15年(1696年~1702年)」の銘が刻まれています。しかし、12番の1体のみは「宝暦2年(1752年)」の銘が入っています。この石塔部分の銘の時期だけがかなり離れているのは不自然ですが、この上に置かれる石仏本体には「平川与四右衛門」の銘が刻まれています。
12番の石仏や制作時期が不明である残りの石仏群についても、時期が明確な石仏と同等の高い彫刻技術が見られます。また、三十三観音信仰の性格から、そう離れていない時期に33体が寄進され、元禄年間(1688年~1704年)のうちに完成したと考えられます。宝暦年間の銘が入る石塔部分については、何らかの理由で石塔部分が再制作されたものと考えられます。
全体的に高い技術レベルを保っているこれらの33体の石仏像は、江戸時代中期の砥川石工の代表作のひとつであり、その歴史・文化的重要性は非常に高いものです。また、当時の人々の観音信仰の様子を如実に読み取ることができる良好な資料です。
石造如意輪観音半跏像(せきぞうにょいりんかんのんはんかぞう)
指定年月日 平成7年(1995)年11月1日
所在地:小城市牛津町下砥川(吸江山永福寺)
吸江山永福寺は、臨済宗南禅寺派で釈迦如来を本尊とします。小城町の三間山円通寺の末寺で、開山は南北朝時代と伝えられています。この永福寺が所蔵する如意輪観音半跏坐像は「肥前砥川石工」の手によるものと伝えられています。
技術的には砥川石工の最盛期である元禄年間以後に制作された石仏の一つとみられる当像は、組彫りされた龕(石窟や家屋の壁面に、仏像・仏具を納めるために設けたくぼみ)のなかに安置される形のものです。その彫刻の優秀さは突出していて、中国仏教的要素を石仏の表現に取り込んだ砥川石工の独創的な技術・芸術性の高さを今に伝える歴史的文化遺産です。
石造布袋像(せきぞうほていぞう)
定年月日 平成10年(1998)年3月31日
所在地:小城市牛津町上砥川
熊野権現社参道入口の肥前鳥居の傍に小さな堂を作って安置される布袋像です。石像の法量は、高さ50センチメートル、幅47センチメートル、奥行き60センチメートルを測ります。台座前面にある陰刻銘によると、元禄4年(1691年)、「殷盛」という人物を檀那として平川与四右衛門によって制作されています。牛津町内には平川与四右衛門が残した石像が6体現存していますが、その中で最も古い時期の制作を示すのがこの布袋像です。
中国の禅宗では、布袋は弥勒菩薩の化身として信仰されていました。日本においても、その像は長崎の唐寺などで作られています。熊野権現社の石造布袋像は、作風的にも唐寺の布袋像と共通し、華僑かと思われる殷盛を檀那として、中国文化の強い影響のもとに作られたと考えられます。このことから、この布袋像は平川与四右衛門の手による優秀な石像という意味だけでなく、平川与四右衛門ならびに当地が中国と深く関わりを持っていたことを明らかにする貴重な資料です。
石造千手観音菩薩坐像(せきぞうせんじゅかんのんぼさつざぞう)
指定年月日:平成10年(1998年)年3月31日
所在地:小城市牛津町上砥川
谷集落の中ほどに小さな堂を作って安置される千手観音菩薩坐像です。仏像全体を石の一材から彫り出していますが、台座の蓮華座は別材です。法量は、高さ56センチメートル、幅40センチメートル、奥行き42センチメートルを測ります。
光背裏面には、谷集落の檀那寺ともいえ、平川与四右衛門の墓も所在する常福寺の南談和尚により記された陰刻銘が残っています。そこには、この千手観音菩薩が当村の男子ならびに女子の安置を願って作られたもので、宝永5年(1708年)に平川与四右衛門信照が作成したことが明らかにされています。「信照」の字が見られるのは珍しく、「信輝」の銘入りのものも含めて3体しか確認されていません。
この石仏は保存状態が良く、平川与四右衛門の作風を知る上で貴重な作品です。また、江戸時代の仏教を支えた庶民の発願によることも、時代の様相を反映していて意義深いものです。
石造如意輪観音菩薩半跏坐像
(せきぞうにょいりんかんのんぼさつはんかざぞう)
定年月日:平成10年(1998年)年3月31日
所在地:小城市牛津町上砥川(広巖山常福寺)
谷集落を見下ろす山麓に所在する常福寺の境内に安置される如意輪観音菩薩半跏坐像です。平川与四右衛門の作としては小振りの石像です。法量は、高さ40センチメートル、幅29センチメートルを測ります。蓮華座の下の竿石の銘文から、享保21年(1736年)の制作と考えられます。常福寺は谷周辺に住み活躍した肥前砥川石工の多くを檀家とする寺で、境内には数多くの石仏や石造物が安置されており、砥川石工の手による石仏の変遷を知るうえで重要な位置づけを占めています。
そのなかで、優秀な作品を数多く残し名工と言われる平川与四右衛門の名が刻まれる如意輪観音菩薩半跏坐像は、髻と右手首を欠失しているものの、顔を含め全体的に保存状態は良く、与四右衛門の作風の変遷を知ることができる貴重な石仏です。
石造地蔵菩薩半跏坐像(せきぞうじぞうぼさつはんかざぞう)
定年月日 平成10年(1998年)3月31日
所在地:小城市牛津町下砥川(吸江山永福寺)
牛津町寺町の旧長崎街道沿いに所在する臨済宗南禅寺派寺院、永福寺の境内に作られた堂の中に安置される地蔵菩薩半跏坐像です。
本像は、平川与四右衛門銘が入る石仏のなかでは最も数の多い仏像です。この半跏坐像は、下から亀甲型の基礎・樽型の竿石・方形の中台・蓮華座(請花)を組合わせた上に安置されます。蓮華座は垂下した左足のため、その足を受けるように大きく彫り込んでいます。本体の像高は74センチメートル、幅42センチメートル、奥行き40センチメートル、全高184センチメートルを測ります。
この地蔵菩薩半跏坐像に記された銘文については、全文を判読することはできませんが、『牛津町史』等に採録されていて、享保21年(1736年)に平川与四右衛門が制作したことがわかります。この石仏自体は風化が進んでいますが、作風を窺うには十分であり、平川与四右衛門の基準作の一例として価値の高い資料です。
石造弁才天坐像(せきぞうべんざいてんざぞう)
定年月日:平成12年(2000年)3月31日
所在地:小城市牛津町上砥川(西福寺跡)
砥川町公民館に隣接する堂内に安置された石造の弁才天坐像です。元来、この地には空山の巨福山長勝寺の塔頭寺院であった西福寺があり、その本尊として長く祀られてきたものです。像高は50センチメートル、膝間40センチメートルを測ります。
牛津町内には数多くの丸彫りの石仏が遺存しています。その中で制作時期が明確にわかる石仏で最も古いものは、寛文9年(1669年)の銘が刻まれている永福寺所蔵の観音像です。本弁才天坐像は、この観音像に次いで古い紀年銘を残すものです。また、本像は、貞享4年(1687年)に登場して以来、砥川石工の石仏制作技術に大きな影響を与えた平川与四右衛門が活躍する以前の天和元年(1681年)に制作されたものであり、与四右衛門様式ともいえる石像彫刻以前の、いわば丸彫石仏の初期的彫刻技術を今に伝える作品として貴重です。
本像は、制作当初から西福寺の本尊として堂内に祀られてきており、周辺住民からも信仰の対象として手厚い保護を受けてきており、その遺存状態はほぼ完全で制作当初の状態を今に伝えています。
石造地蔵菩薩坐像(せきぞうじぞうぼさつざぞう)
指定年月日:平成12年(2000年)3月31日
所在地:小城市牛津町上砥川(広巖山常福寺)
常福寺境内に安置される石造地蔵菩薩坐像で、下から反花をあしらった基礎部、樽型の塔部、蓮華座を組合せ、その上に本像を安置するものです。像高は58センチメートル、膝間48センチメートルを測ります。
常福寺に安置される石造物のなかで、最も古い元禄2年(1689年)という紀年銘を持っています。作者は不明ですが、作者の彫刻技術の高さを十分に窺える作品です。幸いにも、信仰の対象として地域住民によって大切に保護されてきたため、自然風化や人為的破壊を受けず、その遺存状態はほぼ完全で制作当初の状態を今に伝えています。
石造聖観音菩薩坐像(せきぞうしょうかんのんぼさつざぞう)
指定年月日:平成12年(2000年)3月31日
所在地:小城市牛津町牛津(長泉山円通庵)
本像は、祥光山星巌寺の隠居寺である円通庵の本尊として奉られる石造の聖観音像です。
全体に黒漆を塗布し、その上から金箔を施されている、非常に類例が少ない石仏です。頭部および垂髪は黒、唇は赤漆とみられる顔料で彩色されています。結跏趺坐し、両手は足下で法界定印を結ぶ形態の坐像で、観音像としては一般的な形態です。像の下には蓮華座が置かれ、塔部には元禄8年(1695年)8月18日に新町の人々16人によって奉納されたことが記されています。
細面の顔に頬はやや膨らみをもたせ、目元は厳しい表情をつくり、細部にわたって繊細な彫刻が施されています。地元石工の技術の高さをよく表していて、遺存状態もよく、小城市の近世美術工芸史に残る貴重な秀作です。
石造地蔵菩薩坐像(せきぞうじぞうぼさつざぞう)
定年月日:平成12年(2000年)3月31日
所在地:小城市牛津町牛津(輪王庵)
本像は現在、友田公民館内に祀られていますが、元々はこの地に所在した黄檗宗輪王庵の本尊として祀られたものです。像高50センチメートル、膝間35センチメートルを測り、宝永2年(1705年)の制作です。
輪王庵は、円通庵と同じく小城藩主の菩提寺であった祥光山星巌寺の隠居寺であったと伝えられますが、従来は曹洞宗関係の庵寺だったものが、安永年間(1772年~1780年)に亡くなった玄豹郁和尚の代に黄檗宗に改宗された可能性が高いです。本像は黄檗宗あるいは新町円通庵との関係は薄く、善現法囿大和尚の代である宝永2年に発願され祀られたものであると推測されます。
また、銘文によりこの石仏を制作した石工が「武富徳右衛門」であることがわかります。これまでの調査では、この人物名は他に登場しておらず詳細はわかりませんが、彫刻表現などから観察して、砥川石工によるものではなく小城西川石工の制作である可能性が高いです。
木造阿弥陀如来坐像(もくぞうあみだにょらいざぞう)
指定年月日:平成12年(2000年)3月31日
所在地:小城市牛津町上砥川(巨福山長勝寺)
本像は檜材の一木造り、彫眼、漆箔で、像高9センチメートルを測ります。仏像全体を一木から彫りだし、内刳りは施していません。頭部は青く彩色されていて、像後面の光背は銅造鍍金で、上端部および左端部の一部を欠失しています。
本像を所有している長勝寺は、臨済宗南禅寺派の寺院で、南宋から渡来した禅僧・蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)の開山と伝えられていて、鎌倉時代にはすでに存在していたといわれています。そうした歴史的背景を有する長勝寺に長く伝世されてきた本像は、小品ではありますが的確な彫刻技術が認められ、優れた出来栄えをみせています。精微な透かし彫を施した、当初の光背が付随する点も貴重です。鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての14世紀の作風を顕著に示している価値の高い資料です。
問い合わせ
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