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小城市の文化財(史跡)

更新日:2019年11月 7日

史跡

土生遺跡(はぶいせき)

土生遺跡のようす

指定年月日

昭和48年(1973年)6月2日

所在地 小城市三日月町久米2488(Googleマップで表示します)

弥生時代前期に始まり後期まで営まれた、嘉瀬川以西では最大規模の集落跡です。昭和46年(1971年)に発掘が行われました。住居跡には柱根が残っているものもあり、また、礎板を敷いたものや横木を渡しているものもみられました。遺物は、多量の土器とともに石器(石斧・石包丁・砥石)、木製品(鍬・堅杵・杓子・織具・高坏)が出土しています。

 

また、近年行われた調査では、弥生時代中期の掘立柱建物が数棟確認され、柱穴の一つからは青銅製鉇(やりがんな)鋳型がわが国で初めて出土しました。他にも、青銅器鋳型踏鋤などの農具が発掘されています。

 

わが国の初期農耕文化の実相を考えるうえで、重要な資料を提供する遺跡として、国指定史跡となっています。

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佐賀県史跡

寺浦廃寺塔跡ならびに礎石
(てらうらはいじとうあとならびにそせき)

寺浦廃寺塔跡ならびに礎石の画像

指定年月日 昭和46年(1971年)6月29日
所在地 小城市小城町晴気

寺浦廃寺は、奈良時代から平安時代にかけての寺院の跡です。大正時代初期までは金堂跡が残っていたと伝えられています。当廃寺に関する記録は残っておらず、地名をとって寺浦廃寺と呼ばれています。小城町教育委員会(当時)が昭和61年度(1986年度)から平成2年度(1990年度)にかけて発掘調査を行い、伽藍の概要を把握することができました。

 

当廃寺は奈良時代初めに創建され、創建当初は金堂を中心としてその回りに東西63メートル、南北72メートルの回廊があり南回廊の中央には門がありました。回廊は掘立柱の建物で建て替えも認められました。奈良時代半ばになると金堂の西に塔が造られました。塔跡の心柱の礎石の円柱径より塔の高さを求める計算法から、塔は三重の塔と推定されます。当廃寺は、出土遺物からみて平安時代までは存続していたと思われます。

 

当廃寺は旧小城郡の郡司クラスが建立した氏寺とされる、伽藍配置や瓦など古代寺院研究上重要な遺跡です。

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茶筅塚古墳(ちゃせんづかこふん)

茶筅塚古墳のようす

指定年月日 平成4年(1992年)5月27日
所在地 小城市小城町(小城公園内)

小城公園にある標高36メートルの独立丘陵頂部に築造された前方後円墳です。規模は全長約50メートル、後円部高約5メートル、前方部高約2メートルを測り、後円部と前方部の比高差が3メートルです。

 

現状では、後円部が二段築成で、後円部に比して前方部が低い墳形です。この古墳の築造された時期は、発掘調査によって墳丘くびれ部付近や前方部隅部より出土した土師器から、4世紀後半に築造されたものと考えられます。

 

茶筅塚古墳は佐賀平野西部に築造された前方後円墳の中では、時期的には最古段階に位置付けられるとともに、同平野西部地区では古墳時代前期の中で最大の規模を誇っており、同地域の首長墓の系列を研究する上で貴重です。

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権現山前方後円墳および2号墳
(ごんげんやまぜんぽうこうえんふんおよびにごうふん)

権現山前方後円墳および2号墳のようす

指定年月日 平成5年(1993年)3月31日
所在地 小城市三日月町織島1576番地92,93

両古墳は天山山系の東端、高取山から伸びる標高110メートルの権現山頂部に並んで築かれ、南方の眼下に佐賀平野を見下ろしています。

 

権現山前方後円墳は、権現山頂部の東端に自然地形を利用して築造され、前方部を西に向けています。これまで発掘調査は実施されておらず、内部主体や副葬品等は不明ですが、墳形や立地の特徴から5世紀代の築造と推定されます。権現山2号墳は、前方後円墳から西に35メートル離れて位置し、墳丘頂部には大きなくぼみがあります。墳丘上で採集された埴輪片や須恵器片から、6世紀後半の築造と推定されます。

 

権現山前方後円墳および2号墳は、佐賀平野西部地区における有力古墳のひとつとして、古墳時代中期から後期のこの地域における有力集団とその首長の存在を示すものであり、当時の地域社会および文化を知るうえで重要な位置を占めています。

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小城市史跡

一本松古墳群(いっぽんまつこふんぐん)

一本松古墳群のようす

指定年月日 平成3年(1991年)3月20日
所在地 小城市小城町栗原711番地2

一本松古墳群は天山山系南端笠頭山から南東に延びる尾根筋の南西斜面標高110メートル~115メートル付近に立地します。

 

かつては70基を超える古墳が存在していましたが、現在では破壊されたものも含めて10数基が確認されるのみです。昭和44から45年(1969から70年)に1~5号墳と7~10号墳の9基の発掘調査が行われました。いずれも封土径8メートル~14メートルの円墳です。小城市史跡指定は2,7,8,9,10号墳の5基です。

 

これらの2,7,8,9,10号墳が属する古墳群(支群)からは、武具、馬具、装身具、土師器、須恵器などが出土しており、5世紀後半から築造を開始し、6世紀前半の空白期をはさんで6世紀後半から7世紀前半まで継続的に営まれた散在型群集墳とみられています。

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肥前小城藩主鍋島家墓所(星巌寺)
(ひぜんおぎはんしゅなべしまけぼしょ(せいがんじ))

肥前小城藩主鍋島家墓所(星巌寺)のようす

指定年月日 平成6年(1994年)3月17日
所在地 小城市小城町畑田(祥光山星巌寺)

星巌寺は、貞享元年(1684年)に小城藩2代藩主鍋島直能が、初代藩主元茂の菩提を弔うために鷺山に一寺の建立を発願したことに始まり、3代藩主元武のときに落成しています。

 

小城鍋島家墓所は、江戸時代から昭和時代前期にかけて営まれた墓所で佐賀本藩や他の大名家に比べて規模は小さいものですが、鍋島家の他の支藩や親類格の墓所の中では規模の大きいものに属しています。3代元武、6代直員9代直堯以外の8人の藩主の墓と親族の墓があります。また、初代元茂に殉死した10人の家臣の石祠も祭られています。

 

墓所は塀に囲まれた独立した空間で、南側の塀のみ土塀で入口は薬医門になっていて、面積は1,433平方メートルほどになります。この中にさまざまな形式の墓塔が見られ大名の思想や墓制を窺い知るうえで重要です。

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梧竹観音堂(ごちくかんのんどう)

梧竹観音堂のようす

指定年月日 平成7年(1995年)2月23日
所在地 小城市三日月町金田

観音堂は中林梧竹が明治41年(1908年)、82歳のときに建立し、さらに、御物を納める鳳凰閣を翌明治42年(1909年)にその傍らに建立しました。今は鳳凰閣はなく、観音堂も昭和24年(1949年)の台風で倒壊し、昭和32年(1957年)に規模を縮小して再建されて現在に至っています。

 

観音堂正面入口に佐賀本藩最後の藩主である鍋島直大の書「三日月堂」の木額が掲げられ、堂内正面には梧竹が生涯信仰した観音像を祭り、左側に先祖代々、小城藩主、先師(草場佩川、山内香雪、余元眉)の位牌が安置されています。両側には隠元禅師の「観世音菩薩」、梧竹の「寂滅場中活路通」の木額が掲げられています。

 

梧竹は大正2年(1913年)8月4日、観音堂で87歳で没しました。梧竹観音堂は書聖・中林梧竹ゆかりの地として貴重な史跡です。

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肥前小城藩主鍋島家墓所(玉毫寺)
(ひぜんおぎはんしゅなべしまけぼしょ(ぎょくこうじ))

肥前小城藩主鍋島家墓所(玉毫寺)のようす

指定年月日 平成20年(2008年)2月1日
所在地 小城市三日月町織島(金粟山玉毫寺)

玉毫寺は、小城藩3代藩主鍋島元武の遺言により、正徳4年(1714年)に建立されました。元武は星巌寺を開山した潮音道海禅師のもとで黄檗宗の修行を積み、延宝8年(1680年)に和尚の位を授けられ、金粟元明老大和尚と称するようになりました。元武は延宝7年(1679年)から正徳3年(1713年)まで小城藩主でした。

 

元武が開基したことから藩政期には石高40石を毎年藩から与えられ、山林80町歩を領していました。寺には小城藩主のうち3代元武、6代直員9代直堯が葬られ、星巌寺とともに小城鍋島家の菩提寺となっています。また、9代直堯に寄進された石燈篭の中に、中林梧竹や宮崎元益(小城藩医者)の名が見出されています。

 

当墓所は、大きな改変を受けず大名家の墓所の景観を伝えている貴重な史跡です。

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祥光山星巌寺(じょうこうざんせいがんじ)

報恩堂の画像

報恩堂(回廊から)

左は石造五百羅漢像

指定年月日 平成27年(2015年)2月26日
所在地 小城市小城町畑田(祥光山星巌寺)

祥光山星巌寺は小城鍋島家の菩提寺で黄檗宗の寺院です。山号と寺名は初代藩主鍋島元茂および2代直能の法名に由来します。2代直能が初代元茂の菩提を弔うため貞享元年(1684年)に発願し、3代元武が元禄3年(1690年)に潮音道海禅師を開山として建立しました。

 

江戸時代末期の指図によると楼門の正面に本堂、左右に禅堂、齋堂が三方を囲むように対照的に配されています。齋堂には廊下で繋がれて鐘突堂があり、齋堂の東には庫裡が控えていました。さらに庫裡から北へ連続する形態で知客寮や方丈等が配され、中坪を隔てた大方丈の北には藩主の御成りの際の部屋であろう御居間がありました。本堂の後方には回廊の奥に報恩堂があり、回廊の西の突き当りには当寺開山の潮音道海禅師を祀る東向きの開山堂が描かれています。これらの建物や本堂の基壇は昭和の中頃まで部分的に遺存していました。

 

現在は境内に楼門、報恩堂、回廊、五百羅漢像、歴代住職墓碑等が残っています。また、境内奥の墓所には歴代藩主の墓碑や御霊屋が整然と祀られています。小城鍋島家の菩提寺として歴史的に重要な場所であり、近世以降の小城の成り立ちを知るうえで極めて貴重な史跡です。

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問い合わせ

小城市教育委員会 文化課/梧竹記念館/歴史資料館
〒845-0001 佐賀県小城市小城町158番地4(桜城館内)
電話番号:0952-73-8809/0952-71-1132(平日、土曜日、日曜日 8時30分から17時15分まで) ファックス番号:0952-71-1145
メール:bunka@city.ogi.lg.jp
 

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